牧場時代のニックネームは"Baby Huey"。
2歳時は、シャンペンSを米2歳レコードで完勝し、2歳チャンピオンに。
3歳を迎えて、緒戦を9馬身差で圧勝すると、以後はベルモントSまで馬を労り、しまい流して決定的な差をつけ続けた。Kダービーはつまづいて後ろからの競馬、ベルモントSは道悪も問題にしなかった。その後オーナーのゴリ推しで出走した
スワップスSでは、疲労から生涯唯一の着外に敗れ、更にウィルス性の病に倒れて、翌年5月までレースを使えなくなってしまった。この年は年度代表馬となっている。
復帰後も力衰えず、マルボロCで
Affirmedとの3冠馬対決を制し、ジョッキークラブ金杯では2着に敗れはしたものの、
Excellerとのデッドヒートは、
Sunday Silenceと
Easy Goerの
プリークネスSと並ぶ伝説の叩き合いとして、語り草となった。4歳でも、年度代表馬こそ
Affirmedに譲ったが、古馬チャンピオンに輝いた。
種牡馬として、1984年には米リーディングサイアーとなった。産駒のステークスウィナーは100頭にも上り、年度代表馬A.P. Indy、3歳牡馬・古馬チャンピオン
Slew O'Gold始め、活躍馬多数。ブルードメアサイアーとしても優秀であった。