1912年、馬主でもあるダイヤモンド富豪Solomon B. Joel ソロモン・ジョエル氏によって生産された
Pommernは英国に生まれ、Charles Peck チャールズ・ペック調教師に預けられ7勝を挙げた。
主な勝ち鞍に英2000ギニー(芝8F)、ニューダービー[英ダービー](芝12F)、セプテンバーS[英セントレジャー](芝14F)、
ジューンS[
コロネーションC](芝12F)、リッチモンドS(芝6F)など。
父は英チャンピオンS勝ちの
Polymelus、母はMerry Agnesで
Hamptonの3×3、Newminsterの5×5×5のクロスを持つ。
ドイツとポーランドの国境にまたがるオーデル川とヴァイクセル川流域のバルト海に沿った地域から『
Pommern』と名づけられ、デビューを目前とした頃の6月、サラエボでオーストリア皇太子が暗殺され第一次世界大戦の勃発した。
そんな中デビューし2戦とも着外に敗れたが、続くリッチモンドSで2馬身の快勝で初勝利。次走でも4馬身と圧勝すると、陣営は英ダービーに向かうことを表明し
Pommernも休養に入った。しかし世界大戦の戦火は拡がる一方で、競馬自体も危ぶまれたが開催を中止すればビジネスとして大勢の人々に被害が及ぶ為、ニューマーケットでのみ開催された。そのためクラッシクレースは全てニューマーケットで代行された。
休養を明け3歳初戦のクレイヴンSで2着に入ると、三冠の第1弾である英2000ギニーに出走。Tournamentに3馬身つける圧勝を飾ると、続くニューダービーでは2.1倍と圧倒的人気に支持された。スタートしMy Ronaldが逃げると4番手にいた
Pommernは最後尾まで下げた。残り800mの時点で先頭に立つと後方から追い込んできたLet Flyに抜かせることなく2馬身差をつけて完勝し二冠。三冠の権利を唯一持つ
Pommernは英セントレジャーの代行レースであるセプテンバーSに出走、このレースはまさに
Pommernのためのレースだった。ニューオークス馬Snow Martenを2馬身抑えて優勝、三冠馬として歴史に名を刻んだ。
4歳の
ジューンS勝利後引退、戦渦の中にいた三冠馬は1917年から種牡馬入りした。
ところが、代行レースでの三冠を通常のレースと同一とすることに異議を唱える人々がいたので「三冠馬」と呼ぶことが問題視されたが、
Pommernの強さは揺るぎない事実であったので今では「英三冠馬」の一頭とされている。
Adam's Apple(英2000ギニー)などを出すも、1935年に23歳で死去した。