兵庫県におけるサラブレッド導入後の、最初のスターホース。
デビューから2戦こそ取りこぼして休養に入ったが、復帰戦を制すと、続くJRA交流戦でも1着に。
遠征先の名古屋では、ちぎられはしたものの
レジェンドハンターの2着に入線し、
地元に戻った菊水賞(当時は4月施行)では3馬身差の完勝。
記念すべき第一回兵庫チャンピオンシップは
ミツアキサイレンスの8着、
同じく第一回園田ダービーも、牝馬の
アヤノミドリに競り負け2着と苦戦したが、
姫路のオープン戦で巻き返すと、返す刀で金沢に遠征、見事MRO金賞を勝利した。
秋には中央の菊花賞に出走すべく
セントライト記念に出走。
権利取りは惜しくもならない4着だったが、これは誇れるものだった。
しかし、何としても菊花賞に出たかったのだろう、JRA昆厩舎に移籍することになる。
結果的には菊花賞15着、中日新聞杯13着と結果は出なかったものの、歴史的な足跡を残したと言える。
出戻ってから2連勝するなど、再び時代を築くのかと思われたが、無念の休養。
2年間で4走しか使えず、その間に
ロードバクシンら新たなる世代が幅を利かせるようになる。
それでも6歳ながら、年に8走使えた03年は白山大賞典3着を筆頭に、2勝を挙げた。
またしても休みがちになったが、明け8歳の新春賞、そして名古屋・梅見月杯でも3着と気を吐く。
しかし、詳細は不明だが、同レースを最後に抹消している。
新生兵庫の中軸を担った同馬だけに、その後どうなっているのか心配である。