1940年3月2日、馬主でもあるHis Highness The Aga Khan アガ=カーン殿下が自ら生産して愛国に生まれた。Frank Butters フランク・バタース師に預けられ、2・3歳時英国で走り通算成績10戦5勝・2着1回・3着3回。
主な勝ち鞍は英チャンピオンS(芝10F)、コヴェントリーS(芝6F)、グレートブラドリーS(芝6F)、チャタリスS(芝8F)、ケヴェナムS(芝10F)。
父はFederico Tesio フェデリコ・
テシオ氏の「最高傑作」14戦14勝の伊ダービー馬
Nearco、母は
Mumtaz Begumで
Sainfoinの5×5のクロスを持ち全妹にジュライS勝ちの
Rivazがいる。甥に
Royal Charger、従兄弟に
Mahmoudなど。
幼少時より高い評価を得ていた
Nasrullahはデビューから3戦して2勝、しかし生まれつきの頑固さが災いしたのか2歳チャンピオン決定戦のミドルパークSでは
Ribbonのクビ差に泣いた。
第二次世界大戦が本格化し、素質を上手く出せずにいた
Nasrullahも3歳となり初戦を快勝すると英2000ギニーへ向かう。1番人気に支持されるが
Kingswayの4着、続くニューダービーでは人気を落とし2000ギニーと同じようなレース内容で
Straight Dealの3着に敗れた。1戦してセントレジャーに挑戦するも見せ場なく
Herringboneの6着に惨敗、しかし陣営は英チャンピオンSに向かうことを表明。このレースには有力馬が多数集まるも戦法を変えたのが当たり直線で差しきって優勝、そのまま引退した。
「先頭に立ったら走る気を無くす」という性格ゆえに大レースを逃してきた
Nasrullahも英・愛国で種牡馬入りしてから初年度産駒で愛ダービー馬Nathooを出し、その後
Never Say Die(英ダービー・セントレジャー)、Musidora(英1000ギニー・英オークス)、
Nearula(英2000ギニー)、
Belle of All(英1000ギニー)などを輩出。
1951年に英愛リーディングサイヤーに輝くと、米国・クレイボーンファームで併用され
Nashua(
プリークネスS・ベルモントS)、
Bold Ruler(
プリークネスS)、
Jaipur(ベルモントS)、
Nasram(Kジョージ6世&QエリザベスS)、
Bald Eagle、
Never Bend、
Red Godなどを出した。北米リーディングサイヤーにも輝き、芝・ダート・距離を問わず一流馬を輩出し大活躍したが1959年5月26日に大動脈破裂のため死亡した。