1960年、Harry F.Guggenheimの生産馬として米国
ケンタッキー州に生まれ馬主にCain Hoy Stable、調教師は後に
Danzigや
Forty Ninerを出すWoodford C.Stephens師。2・3歳と米国で走り通算成績23戦13勝・2着4回・3着4回 主戦はM.イカザ騎手。
1962年には
エクリプス賞最優秀2歳牡馬セン馬を受賞している。
主な勝ち鞍にシャンペンS(ダ8F)、
フラミンゴS(ダ9F)、フュチュリティS(ダ6.5F)、カウディンS(ダ7F)。他にケンタッキーダービー、アーリントンワシントンフュチュリティ、ウッドワードSの2着、
プリークネスSの3着がある。
父は根幹種牡馬の
Nasrullah、母
Lalunはケンタッキーオークス馬で半弟にトラヴァーズS勝ちがある
Bold Reasonといった超良血馬。
デビュー戦から4戦3勝でアーリントンワシントンフューチュリティに出走するも
Candy Spotsの2着に敗れる。続くフューチュリティSでOuting Clssを破るとカウディンSではValiant Skolを3馬身差でシャンペンSではMaster Dennisを8馬身離して圧勝しオープン戦も勝ち4連勝とした。続くガーデンステートSでは3着と敗れたが、最優秀2歳牡馬に選出され獲得賞金を40万ドルとし当時の世界記録を塗り替えた。
3歳初戦の
フラミンゴSでKing Tootsを5馬身下して勝つと、2走挟んでケンタッキーダービーに向かう。終始逃げていたが、直線で
Chateaugayに差され2着となり続く
プリークネスSは
Candy Spotsの3着だった。1走して『真夏のダービー』トラヴァーズSに出走するもCrewmanの6着と大敗、その後1・2・2・3着と惜敗が続きヤンキーHで久しぶりに勝ちを収めた。しかし
マンノウォーSで
The Axeから30馬身も離れた10着と完敗後、もともと脚の怪我もあって引退を決意した。
Nasrullah最後の世代として1964年に種牡馬となってからは大成功を収め、英愛リーディングサイアーにも輝いたが1977年に死亡した。
その後も産駒の活躍によりスタミナを受け継ぐ
Never Bend系として繁栄した。
代表産駒は
Mill Reef(英ダービー、Kジョージ6世&QエリザベスS、凱旋門賞)や
Riverman(仏2000ギニー、イスパーン賞)、J.O.Tobin(
スワップスS、シャンペンS)、
Iron Ruler(カウディンS、ジェロームH)など